油祖の地に花咲いたエゴマにかける夢

1.再会は日使頭祭

  2014年4月5日、京都府乙訓郡大山崎町に鎮座される「山崎離宮八幡宮」は、年に一度の「日使頭祭」(ひのとさい)」に賑わっていました。その人ごみの中で、「エゴマ油復活プロジェクト」を呼びかけた女性に再会しました。大山崎町歴史資料館にご勤務の寺嶋千春さんは、大山崎町の寺社などに保有されている文化財を管理するお仕事をされています。大山崎町は京都府で最も面積の小さな自治体ですが、京都市、宇治市に次いで国指定の重要文化財が多く、歴史のロマンを秘めた町なのです。
  「大山崎町教育委員会が呼びかけたエゴマ油復活プロジェクトは、いまでは町の皆さんの自由な活動へと発展しました。もちろん、私も1町民として参加しています。」と弾んだ声。新しいチーム名は「大山崎えごまクラブ」。総勢17名の小さなクラブですが、その小さな活動は町の人々の間に広がり、ホームページを立ち上げて意気軒昂とお見受けしました。

※ 「エゴマ油復活プロジェクト」については、植物油INFORMATION第75号「油祖の地に蘇るエゴマ―時空を超えた人々の熱い想い―」をご覧ください。

図1 日使頭祭のフィナーレ、八幡太鼓の披露

注:平成26年4月5日 日使頭祭

主題に入る前に、山崎離宮八幡宮と日使頭祭の歴史散歩と洒落てみましょう。

(1)2つの石清水八幡宮

  京都南部の乙訓郡大山崎町に、油祖山崎離宮八幡宮が鎮座されています。「離宮」八幡宮と称される由来は、この神社が天皇家の離宮跡に造営されたことに由来しています。 桓武天皇、嵯峨天皇の御世に、狩猟などに遠出される際に休息する行宮(あんぐう)が大山崎に造営されたと伝えられています。桂川、宇治川、木津川(和泉川)の3川が合流して淀川と名を変えるこの地は、大阪―京都間を往き来する水上交通要害の地であり、北岸には「山崎津(やまざきのつ)」と称される港がありました。

図2 山崎津の址を示す掲示

  離宮の後背に天王山がそびえる風光明媚の地に置かれたこの離宮を、嵯峨天皇はことのほか愛好され、離宮を中国風に「河陽宮」(かやのみや)と名付けられました。「河陽」とは、川の北側を意味する言葉です。

図3 河陽宮址の石碑と日使頭祭の幟

  この河陽宮に八幡宮が造営された由来について、神社の由緒書は次のように伝えています。

「平安時代のはじめ、清和天皇が、太陽が我が身に宿る夢を見、神のお告げをお聞きになりました。そのお告げとは国家鎮護のため、九州は宇佐八幡宮より八幡神を京へ御遷座せよというものでした。そこで清和天皇は僧の行教にそれを命じます。天皇の命を受け、八幡神を奉じて帰京した行教が、山崎の津(当時淀川の航海のために設けられていた港)で夜の山(神降山)に霊光をみました。不思議に思いその地を少し掘ってみると岩間に清水が湧き出したので、ここにご神体を鎮座し、社を創建することにしました。貞観元年(859)国家安康、国民平安を目的とする「石清水八幡宮」が建立されました。」

―山崎離宮八幡宮ホームページから引用―

  ところで、淀川の対岸にある男山(鳩が峰)にも石清水八幡宮が祀られています。同神社のホー ムページに記された造営の由来は、表現にこそ若干の相違があるものの山崎離宮八幡宮造営の由来書と瓜二つです。いずれが正しいのかということは本題ではなく、私たちに判断する能力もありませんが、ともに王城の裏鬼門(南西の方角)に当たる淀川の両岸に位置する小高い山地という共通した特徴があり、災厄から王城を守る重要な役割を担う神社として造営されたのでしょう。

  造営の由来が瓜二つの起源が類似する2つの石清水八幡宮ですが、そのたどる道筋は全く異なるものとなりました。
  大山崎の石清水八幡宮は我が国製油産業の拠点となって油ビジネスを通じて離宮八幡宮の名は 全国に広まり、油祖として油商関係者の崇敬を集める存在となりました。また、油ビジネスによる高い経済力が、自治都市としての山崎の発展に寄与することとなりました。
  男山の石清水八幡宮は、武を司る軍神として崇敬を集め、歴史上に名だたる武将が必勝祈願に訪 れ、戦勝参拝・奉納を行う神社となりました。余談ですが、鎌倉の鶴岡八幡宮は、源氏の総領であった源頼義が男山八幡宮の八幡神を鎌倉に分霊・勧請し、造営したものです。

(2)日使頭祭(ひのとさい)

  瓜二つの両神社造営の由来書ですが、ただ1か所の異なる表現があります。それは神社造営・建立の時期で、山崎離宮八幡宮は貞観元年(西暦859年)、石清水八幡宮は貞観2年(西暦860年)としています。山崎離宮八幡宮に伝わる由来によれば、宇佐八幡神の分霊は先ず山崎離宮八幡宮に鎮座され、そののちに対岸の男山石清水八幡宮に遷座されたと伝承されてきました。
  この遷座は貞観2年4月3日に行われたとされ、淀川を対岸まで渡河する遷座の行列を再現 したのが日使頭祭とされています。古くは藤祭と称され、現在の京都三大祭の一つである葵祭と並ぶ春の祭礼であったと伝えられていますが、祭礼の模様をとどめる記録はなく、実際にどのような祭礼であったのかを窺い知ることができません。
  日使頭(ひのかしら)とは、八幡神の遷座を司った朝廷の勅使を意味し、日使頭祭において山 崎離宮八幡宮の神官や地域の長者が勤めることがならわしとなっていました。
  孫引きになりますが、東京油問屋市場100周年記念誌「東京油問屋史」(平成12年3月)は、 日使祭について藤原定家の「明月記」を引用し、次のように記述しています。
  「その最も古い記録は、「明月記」の承元元年(1207年)四月三日の条に見出される。
祭儀は八幡宮山崎離宮より男山への遷幸の儀式を型取ったもので、勅使参向の儀式祭礼を日使頭祭と称する。日使頭(ひのかしら)を勤める人を日の長者という。初めは神職が務めていたが、後には八幡宮の油座の印券を帯びて油の商売をなす者から、裕福の人を選んで指定するのが恒例となった。」

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