一般社団法人日本植物油協会は、
日本で植物油を製造・加工業を営む企業で構成している非営利の業界団体です。

油をかけて福をいただく油掛大黒天

大黒様は七福神の一神で、福徳の優しいお顔で米俵の上に立ち、打出の小槌を持つお姿でおなじみです。米俵の米を狙っているように見える鼠は、実は大黒様の命を救った大切な鼠で、いまでは大黒様のお使いの役目を果たしています。大黒様の祭事が甲子の日とされるのは、この鼠に由来しています。
大黒様は五穀豊穣、金運、良縁などを授けてくださる神様ですが、植物油を掛けてお祈りすれば願い事が叶う大黒様が、全国に祀られています。

大黒様の由来

「大きな袋を肩にかけ・・・」と小学唱歌にも歌われた因幡の白ウサギ伝説に登場する神様が、大黒様(大国主命)です。古事記、日本書紀の神話によれば、大国主命は豊葦原中国(日本のこと)の国造りに励み、やがて天孫に国を譲って現世を去り、出雲大社に祀られました。
 その出雲大社をはじめ大黒様を祀る神社・仏閣は多く、五穀豊穣、良縁、金運などの福徳を授けてくださる神様です。宝船に乗る七福神の一体で、特に、漁業をつかさどる恵比寿天と一対となって、豊かさを象徴する「恵比寿・大黒」様として人々の信仰を集めています。

 ところで、因幡の白ウサギ伝説にあるように優しさの象徴のような大黒様が、もともとはヒンズー教の、ちょっと怖い一面のある神様であることをご存じでしょうか。
 大黒様は、ヒンズー教の最高神シヴァ神の化身(別の説もあります)とされるマハーカーラ(摩訶迦伽羅)を漢語で表現したものです。「マハー」は偉大なこと、「カーラ」は暗黒を意味することから大黒と訳されたようです。
 マハーカーラは、戦闘、財福、冥府の3つの性格を有する神様で、三面一体の姿を有することが多く、そのお顔は憤怒の表情であるとされています。日本でも、憤怒の表情の大黒様が祀られている寺社があります。
 このマハーカーラが密教で大黒となり、仏教の天部に属して如来を守護する神である大黒天に転じました。日本には、天台宗開祖の伝教大師最澄が密教とともに持ち帰ったのが起源とされます。
 この「大黒」が、大国主命の「大国」に通じることと重なり合っていつしか神仏習合し、いまの大黒様に転じたと考えられています。もっとも、大国主命も、現世を去ったのちには冥界の主となったとされていますので、マハーカーラと通じるところがあります。やがて、マハーカーラの戦闘や冥府の性格が次第に取り払われ、鎌倉時代ごろに笑みを浮かべる福徳のお顔の大黒様となり、財福や豊穣などをつかさどる神様として信仰を集めるようになったと伝えられています。
 このような経緯から、日本では神様として神社に祀られることもあれば、仏にお仕えする神様「天」としてお寺にも祀られることにもなったのでしょう。

油掛大黒天

 大黒様は日本全国の神社仏閣で数多く祀られていますが、その中でユニークなのが「油掛大黒(尊)天」(あぶらかけだいこく(そん)てん)です。
 仏教では、4月の花祭りにお釈迦さまに甘茶を掛けて祈願するならわしがあり、お地蔵様にも水を掛けて祈願することがふつうで、水掛け不動様もよく知られています。
 その一方で、ごま油や菜種油などの植物油を掛けて祈願する珍しい神仏像として、油掛け地蔵様とともに「油掛大黒天」が全国に鎮座されています。
 むろん、大黒様に油を掛けて祈願するという風習は、神道や仏教の教義に基づくものではなく、伝聞を基にいつしか市井の人々の間で生まれ、伝承されて今日に至ったものと考えられます。
 なぜ、人々が大黒様に油を掛けて祈願するならわしが発生したのでしょうか。それには、次のような故事・由来が伝えられています。

  1. (1) 京の商人(又は、その使用人)が路端の大黒天像に誤って油を掛けてしまったところ、罰が当たるどころか、その後商売が繁盛するばかりでなく、家族にも良縁が舞い込むなど福徳が続いた。商人は、これは「大黒様の加護に違いない」と感謝し、大黒天を祀り、その後も油を掛けて(お供えして)祈願するようになった。
  2. (2) 油売り商人が、毎日の油の売り上げの一部で供物を求め、大黒様にお供えしていたが、ある日、商売が不振で大黒様へのお供えを用意できないため、売り物の油を注いでお供え代わりとすることでお赦しを願ったところ、翌日から商売が繁盛したので、それからは大黒天に油をお供えすることとなった。
  3. (3)大黒様は、五穀豊穣をつかさどる神様であることから、お寺の庫裏周辺や商人の家の台所に祀られることが多く、煮焚きをするかまどの煤で真っ黒になる大黒様を油で磨いていた。このことが、油を掛けることに転じた。
  4. (4)大黒天を日本に伝えることとなった密教には、大聖歓喜天(聖天様)の像を油に浴して大願成就を願う「浴油供」(よくゆく)という秘法が伝えられている。また、大黒天には闘戦塚間浴油神との別称があり、灰身(けしん)を油に浴して願い事をかなえる天神とする説もあり、これらが人々の間に伝聞され、大黒天像に油を掛けることが広まった。

 いずれも、いつとはなく人々の間に広がった伝承ですが、第一番目の伝承は油掛地蔵の故事と瓜二つで、誤って油を掛けたのは大黒天像ではなく、路傍のお地蔵様であったと伝えられているところもあります。油掛地蔵の伝承が広がるにつれて、福徳の神様である大黒天に貴重で高価であった油を掛けて祈願をすれば、もっとご利益が得られると人々が考えたのかもしれません。
 また、お地蔵様などの仏像や先祖の墓石に水を掛けることは、「浄め」とともに生物の生命の根源である「水」をお与えし、パワーをいただくことを意味しています。このパワーの源を、水ではなく油とする風習が生まれたとも考えられます。中国語で、「加油」という言葉はがんばれという意味がありますが、まさに油が有している高いエネルギーがパワーを高めるとの趣旨でしょう。人々が、そのような考え方で神仏像に油を掛け、力に溢れたご利益を得たいと考えたのかもしれません。

*油掛地蔵については、植物油こぼれ話「植物油が取り結ぶ“人々の願い”・油掛地蔵」をご覧ください。

日本の各地に鎮座される油掛大黒天

 伝承の故事・由来の一つは油掛地蔵と瓜二つですが、実は、微妙な相違がみられます。油掛け地蔵は、誤って油を掛けられたと伝えられるお地蔵様そのものがいまも祭祀されています。路傍の石仏であったお地蔵様が2代、3代と代わり、祠が建立される際に場所が移動するという変化があったかもしれませんが、故事・由来はその土地に固有の伝承として伝えられています。祭祀されている地域が京都、大阪、奈良にほぼ限定されているのも特徴です。
 これに対し、油掛大黒天の場合は、故事・由来の伝承そのものは祭祀されている土地とはかかわりがなく、広まった縁起伝承に基づいて篤志家が各地の寺社などに建立・寄進されたものが多いようです。伝承の古さに比較して、建立・鎮座の時期が比較的新しい(昭和年間)ものが多く、路傍に置かれるのではなく、最初から祠に祭祀されてきました。これらのなかには、大黒天を分霊・勧請した本山を記録されている寺社もありますが、建立の時期や事情が不明となったところがほとんどです。勧請・建立・寄進に関わった人々が他界され、現在、お祀りされている方に情報が伝えられていないことがその理由です。
 油掛大黒天の由来となった故事発祥の地を京都とされる寺社もありますが、多くは定かではありません。京都には複数の油掛地蔵の伝承がありますので、それが広まる過程で油掛大黒天伝承に転じたのかもしれません。
 大黒様の像は、両足を平行にされた直立不動のお姿と、両足を前後に開く「走り大黒」と称されるお姿があります。走り大黒とは、祈願者のもとへ一刻も早く駆けつけるためスタンバイされた大黒様のお姿とされています。建立・寄進された方のお気持ちが、大黒様の姿に表されたのでしょう。

 このように、油掛大黒天は多くの由来・故事伝承が重なり合って今日まで伝えられてきました。それぞれの由来・故事は、人々の口から口へと伝えられた民間伝承で、宗教上の教義とかかわりのあるものではありません。市井の人々が五穀豊穣、金運、良縁などの福徳を神仏の加護のおかげであると謙虚に信じ、福徳をつかさどる大黒様に、当時は貴重で高価であり、パワーの源である油をお供えすることによって感謝の意を表し、さらなるご利益を祈願したことが背景にあるのではないでしょうか。

 

 

 いま、植物油は高価な商品ではありませんが、パワーの源であることには変わりがありません。甲子(きのへね)の日に心静かに油を掛けて、大黒様に願いごとの成就を祈願されてはいかがでしょうか。

全国の油掛大黒天

 全国には10か所余りの寺社に油掛大黒天がお祀りされているようですが、ここでは、お話しをお伺いすることができた寺社の油掛大黒天をご紹介することといたしましょう。

油掛大黒尊天(神社)

所在地:山形県米沢市竹井
大黒天への帰依心の篤い米沢新聞社社長(当時)の清野幸男氏が、昭和62年(1987年)に京都大原にある大黒山北寺の大黒天を分霊・勧請され、これを油掛け大黒尊天としてお祀りされました。現在も同新聞社が管理され、秋の甲子の日に、同新聞社により例祭が執り行われています。

油掛大黒尊天(神社)

油掛大黒尊天(神社)

所在地:岡山市弓之町
昭和46年に岡山市の別の場所に勧請・建立された篤志家が、その後、管理を宗教法人宝樹苑に託されました。寄進された方が他界されたため、由来は定かではありません。昭和の名俳優長谷川一夫氏から、幟(のぼり)が寄進されており、秋の甲子の日に宝樹苑により例祭が執り行われています。

油掛大黒尊天(神社)

浄瑠璃山国分寺(別格本山長門国分寺) 油掛大黒尊天

所在地:下関市南部町
天平13年(741年)に建立された長門国分寺は、明治23年(1891年)に現在の地に移転されました。当時の国分寺は第二次世界大戦末期に空襲で焼失しましたが、寺宝の不動明王立像と十二天曼荼羅図(いずれも国の重要文化財)は奈良に疎開されていたため、幸いにも難を逃れられました。油掛大黒尊天の勧請・建立の起源は明らかではありませんが、昭和40年代に篤志家からの依頼により、国分寺境内に祠が建立されました。

浄瑠璃山国分寺(別格本山長門国分寺) 油掛大黒尊天

菅原山宝珠院  油掛大黒天

所在地:大阪市北区与力町
名称のとおり菅原道真にゆかりのある同寺の一帯は、第二次世界大戦により灰燼に帰したこともあり、油掛大黒天の寄進をした方や建立の由来については記録が残されていません。同寺の本堂・庫裏は昭和42年(1967年)に再建されましたが、油掛大黒天は昭和25~6年頃から寺領内に鎮座されていたようです。現在の祠堂は昭和59年に改築されたもの。水掛不動尊と並んでお祀りされています。

菅原山宝珠院  油掛大黒天

注:冬季には寒さのため油が固まっています

佛日山永泉寺  油掛大黒天

所在地:愛知県岡崎市能見町
昭和30年代に、当時のご住職が、地域の人々が同寺にもっと親しんでいただけるようにとのお考えからお寺を公開され、大黒様には、中国語の加油にちなんでパワーの源である油を掛けて祈願していただくことを考案されました。大黒天は篤志家からの寄進によるもの。近くの善入寺にはこの地では珍しい油掛け地蔵が祀られており、両寺のご住職が語らって同じ時期にお祀りされました。

佛日山永泉寺  油掛大黒天

身延別院  油掛大黒天神

所在地:東京都中央区日本橋小伝馬町
昭和の名優長谷川一夫氏は、油掛地蔵伝承のある京都伏見のご出身。同夫人しげ様は神仏への帰依の心篤く、戦後間もなくのある夜、夢の中で油掛大黒天神のお告げがあり、ご親交のあった身延別院ご住職の教えを得て、長谷川夫妻が施主となって同寺境内に油掛大黒天を安置されました。前掲の岡山市弓乃町の油掛大黒尊天に、長谷川一夫氏から寄贈の幟があるのも、このような経緯からと思われます。同寺は、吉田松陰らが処刑された伝馬町牢獄後に、多くの刑死者の霊を安んじるため建立されたお寺です。

身延別院  油掛大黒天神

新界山大観密寺  油掛大黒天

所在地:仙台市泉区
油掛大黒天は、仙台大観音の建立(平成3年)以前より同地に鎮座されていました。この一帯を開発した方が、山城の国(京都)から勧請されたものと伝えられています。
現在は、同寺を構成する祠としてお祀りされており、縁結びの神仏として人々の信仰を集めています。

新界山大観密寺  油掛大黒天

注:写真は、許可を得て大観密寺ウェブサイトから引用

薬王山蓮住寺  油かけ大黒天

所在地:秋田市保戸野鉄砲町
昭和44年ごろ、地元の篤志家から寄進されました。大黒様は、京都の著名な寺社から勧請されたと伝えられていますが、はっきりとした記録は残されていません。
油を掛けて祈願する珍しい大黒様として、金運・良縁を願う地元の人々の信仰を集めています。

薬王山蓮住寺  油かけ大黒天

注:蓮住寺からご提供いただいたもの。寒いため油が固まっています。

大黒山東泉寺  油掛大黒天

所在地:群馬県利根郡みなかみ町
同寺のご本尊である大黒天は秘佛として普段は公開されないことから、ご本尊に代わって参拝の方の願いことを聞き、ご本尊へ伝える役割を果たすため油掛大黒天をお祀りされました。同寺の建立(昭和62年)以前から小さな油掛大黒天が鎮座されていましたが、現在のお寺の建立と併せて、現在の油掛大黒天がお祀りされました。元の油掛大黒天が鎮座されていた由来は不明です。

大黒山東泉寺  油掛大黒天

注:東泉寺からご提供いただいたもの

*各寺社にお伺いしたお話を基に構成したものです。

*特別の断りのない写真は、許可を得て日本植物油協会で撮影したものです。