油祖の地に花咲いたエゴマにかける夢

2.「油祖」離宮八幡宮

  山崎離宮八幡宮には、造営・遷座とほぼ同時期に、神社の行方を決定する大きな出来事がありました。それは、エゴマ(荏胡麻)を原料とする新しい搾油技術の開発でした。

(1)遠里小野(おりおの)の郷

  日本の植物油製造の起源については現存する資料もなく、史家による定説がありません。
  1810年に「搾油濫觴」(衢重兵衛編)という資料が刊行され、そこに日本の植物油の歴史が記されています。しかし、歴史といっても明確な記録のない時期については伝承を記したものもあり、史書として評価できるものではないかもしれません。
  またまた孫引きになりますが、東京油問屋市場百年史には、「搾油濫觴」を引用して、日本の搾 油の歩みが紹介されていますので、それにより概要をご紹介しましょう。

  「わが国で初めて木の実が搾油されたのは神宮皇后11年(西暦211年)のことで、攝津の国の住吉大明神(現在の住吉大社)において行われた神事で灯火が使われ、その灯明油として献燈するため同じ摂津の国の遠里小野(おりおの)村において、榛(はしばみ)の実が搾油されたと言われている。遠里小野村はこれにより、社務家から御神領のうち免除の地を与えられたという。これが、わが国の搾油のはじまりとされている。」

  この遠里小野村が、日本の搾油の始まりとするのが定説となり、遠里小野村の搾油業はその後も隆盛を続けます。しかし、一般的には木の実に含まれる油分は少なく、搾油効率も悪いものであったと推測できます。また、どのような搾油法を用いたのかも定かではありません。
  このように榛の実に始まったとされる搾油は、ごま、エゴマなど草木の実を利用しながら続けられ、寺社の法会や催事の灯明用に用いられてきました。

(2)長木の開発

  エゴマの栽培が普及するなか、貞観元年(西暦859年)、宇佐八幡宮からの遷座と同時に山崎離宮八幡宮の神官(商人との説もあります。)が梃子(てこ)の原理を応用した長木(ちょうぎ、又は、ながき)というエゴマの搾油道具を開発しました。長木の搾油能力は、それまでの搾油法よりも優れていたことから、エゴマ生産の増加に伴い遠里小野村に代わって山崎離宮八幡宮が搾油業の中心地に踊り出ることとなりました。

図4 再現された長木

注:文化庁の補助事業により、再現された長木の模型
神社伝承の絵図にある長木の1/2の大きさとされ、大山崎町歴史資料館に保管されている。

  この長木によるエゴマ油生産が我が国の商業的製油業の起源であるとされ、山崎離宮八幡宮に「油祖」の名称が冠される由縁となりました。山崎のエゴマ油は神社仏閣、朝廷などの灯明用として献上され、朝廷はその功績を賞して八幡宮に「油司」の宣旨を授けました。

図5 油祖像と本邦製油発祥地の石碑

(3)大山崎エゴマ油ビジネスの栄枯盛衰

  エゴマの生産と長木による搾油技術はやがて各地に広がりましたが、そのことは離宮八幡宮の独占的地位を脅かすこととなります。このため、離宮八幡宮は朝廷に油の専売権の付与を要請し、朝廷はこれを受け入れ、離宮八幡宮を「荏胡麻製油の長」と認定して独占権を認め、八幡宮の油商人に対し諸国の関所などを自由に通行できる特権を与えました。
  特権によって山崎には離宮八幡宮を中心とする巨大な油座が形成され、油長者が幅を利かせることとなりました。その特徴は、油商人は八幡宮に帰属する神人(じにん)であり、他の商人より地位の高い存在と認識されたことにありました。加えて、大阪~京都間の水上交通の要所に位置し、京都という最大紀)に記された「信貴山縁起絵巻・飛蔵之巻」に「山崎長者」が登場しますが、当時の搾油道具が描かれていることから、この時期には、山崎の油の需要地が近隣に控えていたという立地の優位性が、エゴマ油ビジネスの発展を支えました。平安時代後期(12世の地にエゴマ油で財を成した長者が存在していたことが窺えます。また、領主が領地として統治するのではなく、集落ごとに選任された代表者で構成する総代会が地域を運営する仕組みが成立していました。離宮八幡宮の有する宗教と経済の力に住民の自治意識が重なり、当時としては類例のない市民自治の社会を形成していたといえるでしょう。
  その後の武家社会においては、武神である八幡神に対する崇敬の念はなお強くなり、離宮八幡宮とエゴマ油ビジネスは繁栄の時を迎えることとなりました。
  室町時代には、山崎の油座は幕府の一層の手厚い庇護を受けることとなり、エゴマ油ビジネスはさらに繁栄を遂げます。天王山の南斜面全域は、離宮八幡宮と同神社に所縁のある神宮寺などの寺社が建ち並び、一種の霊域を形成する勢いを示していました。
しかし、応仁の乱(1467〜1477年)の戦禍は山崎の地にも及び、エゴマ油ビジネスにも荒廃をもたらしました。その戦禍から立ち直ったものの、手厚い庇護を与えてきた室町幕府の権勢の低下と軌を一にして山崎の油ビジネスは昔日の勢いを失い、やがて自由な経済活動を唱える織田信長の楽市楽座政策により特権的地位を喪失することとなりました。織田信長を継承した豊臣秀吉は山崎油座の庇護に務めますが、座の解体に向かう時の流れに抗うことはかなわず、山崎の繁栄に幕を下ろすこととなりました。
  油長者の私財で支えられた日使頭祭は、油長者の消滅とともに江戸時代前期に姿を消すこととなりますが、井原西鶴の「好色一代男」(1682年刊行)には、「日使頭祭を見に行く・・」との一節があることから、この時期までは何とか続けられていたことが窺えます。やがて日使頭祭も忘れられた存在となり、山崎離宮八幡宮は我が国油ビジネス発祥の地という歴史上の存在となるに至りました。

(4)新しい油ビジネスの繁栄

  江戸時代になると菜種の生産が広がり、江戸幕府は菜種生産を奨励しました。1600年代には遠里小野村で長木より効率的な搾油道具である「搾め木」(しめぎ。檮押木とも記されることがある。)が開発され、遠里小野村の油生産が再び活気を取り戻し、攝津一帯が菜種油の産地として繁栄を迎えることとなりました。この油は、菱垣廻船で江戸に運ばれ「下り油」として珍重され、相積みされる灘や半田の酒・酢とともに江戸の食文化に華を添える食材でした。
  山崎の地にもエゴマに代わって菜種の生産が広まり、京・大阪には菜種に依存する新たな製油産業が登場することとなりましたが、エゴマ油ビジネスを担った離宮八幡宮神人の多くも、これらの地で新しい油ビジネスを担ったと伝えられています。
離宮八幡宮と神人に付与されていた産業的特権は完全に失われましたが、離宮八幡宮を「油祖」として崇敬することは江戸時代においても変わりはありませんでした。
  連年(1662,63年)の地震により損壊した社殿の修復を寺社奉行に願い出る、1669年の嘆願書には、「殊ニ大猷院様寛永拾年御造営被・・・」と、徳川三代将軍家光が、離宮八幡宮の拡張・造営を行ったことが記されており、徳川幕府は経済的特権こそ付与しなかったものの離宮八幡宮を崇敬していたことがわかります。また、この嘆願書には日使頭祭の故事とともに、徳川家が源氏の嫡流であることを意識して「源家之宗廟天下第二ノ宮申武家神之守護スル所・・・」とも記しています。この時期、山崎離宮八幡宮が「西の日光」と称されたのも、徳川幕府の手厚い支持があったことを示すものでしょう。

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