アメリカの大豆搾油業の黎明

3. アメリカの大豆搾油の黎明

(1)アメリカの大豆搾油業前史

 アメリカで油糧種子の搾油が始まったのは、1802年とされ、搾油された種子は綿実でした。1800年代初頭までアメリカで食用に利用された油脂類は、バター、ラード、食用牛脂などの動物脂肪でした。アメリカ南部は綿花の生産地であり、以後、大豆油が登場するまで、アメリカの植物油といえば綿実油を指す時代が長く続き、大豆搾油が開始されるまで、まだ100年余りの歳月が必要でした。

 カリフォルニア州にある「Soyinfo Center」の’History of Soybean Crushing” によれば、1918年以前のアメリカで大豆油と大豆ミールについて記述した文献を見出すことは極めて稀なことであるとしています。東洋での大豆種子の探索に始まり、USDAなどによる大豆栽培の普及が良好な成績を収め、全米での生産量が増加していたにもかかわらず、大豆は加熱処理して家畜の飼料として利用し、また、枝葉などとともに土壌改良材として用いるという思考を脱却することはなかったのです。アメリカが大豆搾油に関心を抱くのは、1900年代にヨーロッパや満州(現在の中国東北部地域)で大豆搾油が進展していた事実を知ったことと、第一次世界大戦の勃発がきっかけでした。

(2)アメリカの大豆搾油業の開始

アメリカで大豆搾油業が開始されたのは1910~1919年頃とされています。満州で日本の大豆搾油業が開始された時から20年近い歳月が経過していました。
 ヨーロッパにおいては、1910年ごろに輸入大豆を加工して大豆油とミールを製造する事業が始まり、眼を見張るような成功を遂げていましたが、この事実に強く惹きつけられたアメリカは大豆搾油に強い関心を抱くこととなり、試験的な大豆搾油も試みられました。しかし、大豆種子を輸入して大豆油とミールを製造するのではなく、外国から大豆油(粗油)を輸入することを選択しました。国内で大豆を搾油するよりも大豆油を輸入する方が安上がりであることがその理由でしたが、同時に、国内の綿実ミールが過剰気味であったという背景がありました。また、この時期には、効率的に搾油を行うために十分な量の大豆を集荷することができなかったことも大豆搾油業推進に足踏みする要因の一つでした。

 この状況は、第一次世界大戦(1914~18年)の勃発で一変することとなりました。大豆油に対する需要が、食用・工業用ともに急増することとなりましたが、その主な理由は、次のようなものでした。

  1. ① 主要な植物油であった綿実油とアマニ油が、ワタゾウムシ(Boll Weevil)による被害の蔓延から供給不足気味となり、価格が高騰していたこと。
  2. ② ヨーロッパにおけるアメリカの同盟国の油脂不足のため、それらの国へ大量の油脂を供給する責務を負ったこと。
  3. ③ 爆弾の起爆剤として使用するニトログリセリンの製造のため大量のグリセリンが必要となり、その供給源として植物油が求められたこと(1トンのグリセリン製造のため、10トンの植物油が必要であった)。

これらに加えて、そのころ、植物油の水素添加技術が進みマーガリンやショートニングが普及しはじめ、価格の高いラードやバターに代わって好まれるようになったという事情もありました。これらの要因が重なって、極東地域(日本、満州)からの大豆油の輸入が増加することとなりました。

 アメリカの大豆油の輸入量は、年ごとに増加を続けました。1910年の推計輸入量は16.4百万重量ポンド(約7,439トン)であったのに対し、1911年には41.1.百万ポンド(約18,642トン)と2.5倍に増加し、大戦終了年の1918年には336.8百万ポンド(約152,771トン)に達しました。1914年まで日本が最大の対米大豆油輸出国であり、満州で製造された大豆油が神戸を経由して、あるいは満州から直接にアメリカへ輸送されていました。ただ、大豆ケーキ(ミール)の輸入は少なく、最大時(1920年)でも輸入量は3.25百万ポンド(約1,474トン)に過ぎなかったようです。

 それでは、アメリカ国内の搾油はどうなっていたのでしょうか。アメリカにおける大豆搾油の起源は定かではないのですが、1910年代初頭にカリフォルニア在住の中国人がはじめたのではないかとの説があります。アメリカ西海岸には東洋からの移住者が多く、満州から輸入した大豆を搾油し、粗油のまま食用に利用していました。
記録に残された最初の大豆搾油は、1911年にシアトルでAlbers Brothers Milling Companyが、水力式圧搾機械で満州から輸入した大豆を搾油したことが記されています。搾油された大豆油(粗油)は、周辺地域で石鹸や塗料の原材料として販売され、大豆ミールは畜産農家へ飼料として販売されました。

(3)アメリカ国産大豆の搾油

 アメリカ産大豆の搾油については、1915年12月13日に北カロライナ州の綿実油製造企業であったElizabeth City Oil & Fertilizer Company社が開始したと記録されています。同社は、同年12月13~20日に272トン(1,000ブッシェル)の大豆を試験的に圧搾しました。1000ポンドの大豆から124~135ポンドの大豆油と825ポンドの大豆ミールが製造されたと記録されています。北カロライナ州は、当時、大豆の先進的生産地でした。それまでの主作物であった綿実の価格が低下したことから、大豆の栽培が広がりはじめていました。試験的搾油に成功した同社は、大豆搾油を継続し、やがて他の搾油企業がこれに追随することとなりました。
 この動きは、南部の綿花生産地帯(Cotton Belt)に拡大していきます。ワタゾウムシの被害が南部一帯に広がり、綿花栽培の収益性を低下させ、これに代わって大豆と落花生が農家の人気を博し、製油企業も綿実に代わる油糧種子としてこれらを歓迎しました。1916年8月のニューヨーク・タイムスは、ルイジアナ綿実搾油協会が同地域で大豆搾油を優先することを多数決により決定したことを報道し、その後の数か月間に、綿花生産地域(Cotton Belt)に位置する搾油企業が相次いで1917年産大豆の生産契約を農家と締結しました。

 コーンベルトで栽培される大豆の搾油が最初に行われたのは、1917年末または1918年初頭で、イリノイ州のChicago Height Oil Manufacturing Companyが、とうもろこし胚芽の搾油に使用していたスクリュー式圧搾法で少量の大豆の圧搾に取り組みました。同社はコーンベルトにおける大豆搾油業のパイオニアとして操業を続けましたが、十分な量の大豆が集荷できないことから操業が維持できず、その後1923年に操業を停止せざるを得ませんでした。大豆の供給不足問題は、その後も大豆搾油業発展の桎梏であり続けることとなりました。

 このように黎明期におけるアメリカの大豆搾油業の態様は様々でしたが、これらが生産した大豆油の数量は、1910~1919年の10年間における大豆油需要量の1~2%程度ではないかと推測されています。この数量は小さいものでありますが、その後の大豆搾油業の発展にとっては極めて重要なものでありました。

(4) アメリカの大豆搾油業の興隆

 1920年代は、アメリカにおける大豆搾油業の興隆期とも言うべき時期かもしれません。1921年緊急関税法の制定により、大豆製品の輸入に関税が課せられることとなりました。それまで、1909年関税法の特例措置により無税であった大豆油の輸入が激減(1920年の輸入量 50,800トン→1921年には7,711トン)し、不足分を国内の大豆搾油で充足しようという呼び水になったことが背景にありました。
 1922年9月30日、イリノイ州のディケーター市でStaley Manufacturing Companyが、エキスペラー(連続式圧搾機)により大豆油と大豆ミールの製造を開始しました。これが、大手企業が大豆搾油業へ参入する第一号でした。
 *Staley Manufacturing Companyは、現在稼働している最古の大豆搾油企業。1985年に社名をStaley Continentalに変更。

 しかし、コーンベルトでの大豆生産は低調であり、Staleyは前述のChicago Heightと同様に、原料供給量の不足により低収益経営を余儀なくされる日が続きました。創業者のAugustus Eugene Staleyは、油脂の精製、マーガリンやショートニング製造に手を拡げ、大豆油とそれに関連する加工業のパイオニアとして後進への道を示し続けました。これらの動きを詳細に観察していた前述のモース氏(1929年氏は種子収集のため来日)は、1922年にアメリカ産大豆から製造された大豆油はわずか453トンに過ぎなかったにもかかわらず、アメリカ大豆搾油業のサクセス・ストーリーを予見した一人でした。

 1920年代にはコーンベルトの大豆生産はまだ幼児の段階にあり、搾油業を成立させるには原料不足という大きいリスクがありましたが、1920年代から30年代半ばにかけて、Staleyに続く企業が続出しました。原料不足からすぐに倒産する企業もありましたが、今日まで名を遺すArthur Daniels Midland(ADM)、Central Soya、Ralston Purina, Spencer Kellogg Company などが搾油業を開始し、アメリカ大豆搾油業の興隆期と称するにふさわしい役者が登場した時期でした。

【 図4 アメリカで最初の溶剤抽出工場 】
(1923年 Monticello Co-operative Soybean Products社 イリノイ州)
図4 アメリカで最初の溶剤抽出工場
資料:図3と同じ

 原料不足の解消は、当時の搾油業界の最大の課題でした。これを克服することを課題として、1927~28年に前述のEugene Staley氏を含む4名の搾油企業の代表が中心となって「Peoria Plan」(Peoriaはイリノイ州の都市名)が立案され、実行されました。この計画では、イリノイ州で大豆生産を行っている1,500の生産農家との間に、1929年において5万エーカー(もしくは、100万ブッシェル)を上限に、No.2 gradeの大豆を固定価格(1.35ドル/ブッシェル。Peoria基準。)で購入するという契約を締結することが考案されました。この契約は、1928年の厳冬(Winter Freezer)で小麦生産に壊滅的打撃を受けた同地域の農家に好感を持って受け入れられ、1929年には予定通りの大豆が搾油企業に搬入されました。この計画の仕組みは、翌年にはインディアナ州、アイオワ州にも拡大され、アメリカにおける今日の大豆生産と搾油業の繁栄の基盤を築くものとなりました。

 イリノイ州は1920年代に全米最大の大豆生産州となり、主要な搾油企業が立地するディケーター市は「大豆搾油業の首都」と称され、全米の大豆物流のセンターになりました。このため、ディケーター市は、いまでも“Soy City”と称されることがあります。
 同市は、鉄道輸送のハブとなり、鉄道運賃計算の起点とされるようになりました。
 それでも新規に発足した大豆搾油企業が倒産に追いこまれる事例も数多く、すべてが順風満帆の状態にはありませんでしたが、自国における大豆生産が発展することを確信する一握りの企業群が、進んでリスクを引き受け、その後の技術革新を担い、アメリカにおける大豆搾油業の発展に貢献しました。これらの創業者たちが成し遂げた功績は、後継者たちへの貴重な遺産となりました。

【 図5 Ralston Purina社の大豆搾油工場 】
(オハイオ州 1935年撮影)
図5 Ralston Purina社の大豆搾油工場
資料:図3と同じ


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