3.天ぷらは庶民の文化 〜江戸時代

<江戸前天ぷら>

 揚げ物が天ぷらと呼ばれ、庶民の味として花開くのは元禄以後です。ところで、天ぷらと呼ばれる料理には3つの種類があることはご存じでしょうか。1つは江戸のもので、これは薄い衣を材料につけてごま油で揚げ、天つゆをつけて食べます。2つめは長崎のもので、材料にも衣にも味が付いています。これは中国の普茶料理が郷土料理化したものです。3つめは大阪のもので、かまぼこのタネを平たくして揚げた平天(ひらてん)とかごぼう天、わかりやすくいえば薩摩揚げのことです。この薩摩揚げも中国生まれで、中国では「ユイカオ(魚○)※注1」と言います。これが沖縄に伝わって「ツィキアギ」になり、薩摩を経て大阪に伝わったと考えられます。
※注1 ○は、しょくへん(食)に、羔

 今日は江戸の天ぷらについてお話しを進めていきます。今でこそ江戸風の天ぷらはどこでも食べられますが、私はいまだに、東京に来たときにしか天ぷらは食べません。関西は天ぷらを低温で白く揚げることが多く、そうすると衣が油をよく吸って、しつこくなってしまうのです。天ぷらは江戸の料理ですから、江戸っ子の気質そのままに、サッと高温で揚げるのがおいしいのです。油もごま油が向いています。この油はからっと揚がり、油の切れもよいからです。

 江戸時代の天ぷらに話を戻すと、これは高級料理ではなく、屋台の文化であり、庶民の食べ物でした。当時、江戸は職人の町であり、たくさんの単身赴任者がいました。彼らは「八軒長屋」と呼ばれる、4軒の長屋が路地をはさんで向かい合った形の貸家に住んでいました。ひとつひとつの間取りは小さくてキッチンはなく、8軒でかまどはひとつです。サンマを焼くにも七輪は一つしかないわけですから、ひどく不自由です。そういう生活をしている職人を対象にいろいろな屋台が生まれることとなり、天ぷらの屋台もそのひとつでした。

 屋台の天ぷらに使われる材料については、もともとは野菜、サツマイモ、レンコンなどでしたが、それに小魚、あるいは芝エビが加わりました。これらの魚介は、丁寧におろし、背わたを取るなど、下ごしらえをきちんとする、いわゆる「江戸前」の仕事がほどこされ、天ぷらの素材とされました。余談ですが、「江戸前」というのは単に羽田沖でとれた魚を指すのではなく、そういう身近で手に入る安い食材であっても、丁寧に仕事をするということを意味するのです。寿司も同じで、ただ刺身をにぎっただけでは本来は「江戸前」と呼ぶべきではないと思います。

 そうやって丁寧に仕事のされた素材に、水溶きした小麦粉をつけ、高温に熱したごま油でさっと揚げる。屋台では、天ぷら一切れ一切れに串を刺して揚げ、食べるときは串をつけたままタレ(醤油をだしで割り、大根おろしを入れたもの)につけて食べました。タレの器はひとつで、それに皆で串を突っ込むので、“二度づけ”は禁止、現在の大阪の串カツ屋みたいなものです。値段は一串いくらという、気軽なものでした。

 同じような屋台の文化で育ったものがそばです。天ぷらの屋台の隣にそば屋が並び、ごく自然ななりゆきで天ぷらそばが生まれます。このように屋台文化が発展したのです。今でも天ぷら、そばは庶民の人気メニューで、立食パーティなどでも天ぷら、そば、それに寿司などが出ると、有名シェフのローストビーフを押しのけても行列ができてしまうほどです。

<天ぷらは日本の発明>

 天ぷらの由来については諸説あり、ポルトガルから伝わったという方が多いのですが、私はそうは思っていません。実際にポルトガルに行ってみましたが、「てんぷら」という言葉はあるのですが、その意味は「薬味」です。揚げ物のことは「フリッター」といいます。

 この料理に「天麩羅」という名前をつけたのは山東京伝という、今で言うならコピーライターの仕事をしていた人です。正しくいうと「天麩羅揚げ」で、いつしか「揚げ」が消えて、「天麩羅」というようになったのです。料理書の中にも「天麩羅揚げ」という言葉が出てきます。「天麩羅」は万葉言葉で読みますと「あぶら」で、「天麩羅揚げ」は「あぶらあげ」です。また、「麩」は小麦粉のこと、「羅」は薄い衣のこと、「天」は天まで上がるの意味。ですから「天麩羅」というのは、いろんな知識を盛り込んだ命名だったのです。

 名前だけでなく、江戸風の、衣を薄くさっと散らして揚げる料理法も日本の発明だと思います。大阪では水溶きせず小麦粉だけをつけて揚げました。下味をつけた材料に粉をまぶして揚げるのは中国の影響です。ですから私は「天麩羅揚げ」は日本の発明、「天ぷら」は日本語であるのは間違いないと思っていますが、いろいろと論争があります。
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